リトリートの報告 of 『味わう生き方』を実践する




『味わう生き方』は”SAVOR”日本語版の題名です。

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リトリートの報告

タイトル:マインドフルな身体活動法で心地よい日々を手に入れる
日時:11月5、6日(土、日) 
場所:国立中央青年交流の家
プログラム内容:http://研悠塾.com/cn20/pg107.html

 小規模ながら、とても学びと交流が深まり、また主催した私自身が、今も瞑想の実践の余韻に酔ってしまうほど、いい雰囲気のリトリートになりましたので、そこでの気づきと併せて、報告させてください。

 場所は、富士山のふもとにあり、プラムビレッジとどことなっく似た雰囲気があります。共通点を列挙しますと、
・広大な敷地で自然環境が恵まれている
・規律正しい生活(6時起床10時半消灯)
・身の回りの世話を自分でする
・食事は、列に並び、自分で盛る
・TVなどが部屋にない
・敷地内ですれ違う他人に互いに挨拶をする
・子どもたちメインで大切にされている
・質素の中に、恵みを再確認する
といったところです。

 曹洞宗の僧侶になられた方に参加いただきました。遠方であったことから、前泊していただき、期せずして準備作業もお手伝いいただけまししたが、やはり僧侶になるための厳しい修行をされただけあり、身ごなしがテキパキとされ、また時間や鍵の管理、清掃ほか、すべてにマインドフルネスを垣間見ることができ、感銘しました。

 想定している参加対象は、マインドフルネスを「よく知らない人」であり、このような既に本も読み、学びを深めておられる方は嬉しい例外で、他は、卒論のテーマにできないかと考えている早稲田の学生さんや、隣町の元町長や学校医をされている地域のお医者さん、農業を通して町おこしを企画されている元国体・日本代表選手などと多様な背景の方々でした。

 マインドフルネスことをよく知らない方には、いきなり実践だけをするより、心理学や生理学、運動力学などと摺合せながらメカニズムを説明することにしています。
 そうすることで、その先にある深い叡智について思いを馳せていただくことが抵抗感なく、すっとできるからです。

 先述のお坊さんのような方も、そういった理論的な理解も、納得に至りやすいので、興味を持って臨んでいただけました。

 さて、今回、私が準備の過程で気づいたことの一つをここで分かちあわあせてください。それは、「歩行瞑想」の文言の意味の深さです。一見すると、これは、座禅の合間に行う「経行」(きんひん)と同じように見えます。こちらは、足のしびれをとるために、血液循環を促進する意味も含まれると思いますし、歩きながら特に文言を思い浮かべるようには指示されません。

しかし、歩行瞑想は、しびれてから行うものではありません。

息を吸いながら ”I have arrived.”(私は着いた)

息を吐きながら ”At home”(家に)

 翻訳している時や、「今から歩行瞑想を実践しよう」として取り組んだときは、なかなかこの意味深さがわかりませんでした。でも、自分の子供を連れて、ある大きなイベント会場に向かい、会場内に着いてからも、目当ての場所をサ探しながら急いで歩いている時に、この文言を思い出し、ハッとしました。

 目的の場所に到着しても、まださらにその中で、貪るように、目的地を設定しては、そこに移動しようとしている自分。

 また、「目的地」は、物理的な位置ではなく、「子供とともに楽しく喜ぶ時間と空間」だったはずで、その意味では、それが可能になる場所に、もう「着いた」のに、つい、見るべきものを見ようと、時間があったらそれを埋めるべく、子どもの手を無理に引いて、そこを探そうとしている自分。

 メーテルリンクの「青い鳥」のたとえの如く、求めているものはうちにあるのに、「まだだ」と思って、「探して」歩いてしまいます。

 こういう性向に気づくには、用事がなくて「歩行瞑想」の実践ができるという恵まれた時よりも、用事に追われて歩いている時に、ふと実践してみる時の方が、 ”I have arrived.”という「完了形」になっている深い意味を実感できるかもしれません。

 つまり、「歩く」という行為は、「まだ着いていない」と脳が思っているから足が出るわけであり、それを「着いた」と思うようにするのは、頭の中では、「干渉」しあうはずで、だからこそ、意識できるというわけです。

 もちろん、到着する先が、物理的なものと心理的なもので次元が違うので、実際は干渉しておらず、足は絡みません。ただ、心理的に「まだ得ていない」と思うと、必要もないものを見よう、得ようとして、物理的に歩いてしまいます。なので、心理レベルでは、干渉しあっていることになります。

 歩いている最中に、「家(求めていた安らぎの場所という意味)に着いた」と、心の声で脳に言い聞かせてやることでもって初めて、これまでの歩みを振り返り、「今の段階に到達できたこと」が既に有難いことである、ということに気づきやすくなることを実感しました。

 ちょっと専門的かつ理屈っぽく整理すれば、足の部位や呼吸といった一定の場所への注意集中でサマタ瞑想をしながら歩行瞑想をする部分と、次の段階として、歩いている自分の状況やその際の心の動きを「観」ずるヴィパッサナ瞑想をすることが、”I have arrived”, ” at home”の部分になるということかも知れません。

 以上は、私なりの解釈にすぎませんし、実施したプラクティスの1例です。『味わう生き方』のプラクティスを、2回のリトリートで全部、実践しようと計画したわけですが、丁寧にやると、予定の半分も出来ません。それだけ内容が充実しているわけであり、実際のリトリートも数週間を、何年もかけてないと、なかなかわかるものではないのでしょう。

 ただ、日本の中で仕事をもって生活している身分でありながらできることとして、今回のように、日頃は出会うことがないような多様な背景の方と一緒に一泊であっても寝食を共にしながら、た頭でも納得できるような整理をしながらプラクティスを実施し、思いのほか、多くの気づきを与えてくれることがわかりました。

 この御殿場の施設では、富士山が身近に感じられることもあり、新春1月に、またやろうか、という声もあります。まだ開催は未定ですが、ご都合とご関心があえばご参加くださり、あるいはそれとは別に、みなさんも、サンガや気の合った仲間、ご家族などで、プチ・プラムビレッジ風の環境である本施設をご利用して、マインドフルネスのプラクティスをされることを、ぜひ、お勧めします。

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